デイサービスで働いていた時に初めて利用者が亡くなるのを経験した。
年なのもあって、人並みには体に問題を抱えているのは知っていた。
でも、元気だった。
自宅のお風呂に入浴中に体調を崩し亡くなったらしい。
未だに信じられない。
話を少し変えよう。
先日、元アナウンサーの方が亡くなったが、私にとってはニュースを通して知る程度の方だったのと病状の推移を都度、知る限り、長くはないと思ってたので少々の衝撃しかなかった。
報道や遺族のその後に対してはこの場では触れない。
私にとって、元アナウンサーの方は有名人で重い病気に罹ってた程度の認識しかない。
方や利用者は直接話したりと交流をしてる。
心を揺さぶられるのはどちらかは明白だと思う。
タイトルに距離感と付けたが、前者の場合は距離感を縮めようと思っても一方的だ。
ブログでコメントは出来るが交流にまで発展することはなかったんじゃないかと思う。
利用者とはどうか。
お互いが感じてる(思ってる)距離感は一方的だと思う。
ただ、相手をお互いが認識し直接話したりしてる所は明確な違いだ。
この距離感が感傷に繋がっていく。
少なくとも私はそうだ。
私にとってニュースで聞く訃報の大半はその場限りの物で引きずることはない。
感傷を抱くこともない。
利用者だと短い間だが、顔を合わせていた方が亡くなるというのは感傷を抱く。
そして多少なりとも引きずる。
信じられないからだ。
元気だったのも大きいだろう。
死期が近くに感じていれば、どこかで覚悟は出来ていると思う。
だが、前述のとおり、元気で想像すらしたことがなかった。
亡くなったのが、誤った情報で普通にまた来てくれるんじゃないかと思ったり。
自分にとって相手との近い距離間(感傷を抱く)の正体は、亡くなったという事実を知っても、また、いつも通り現れるんじゃないかという思いだと思う。
たとえ、その思いが一方的でも感傷を抱くほどのものなら、自分の日常を構築する上で重要なピースになってたんだと思う。
そのピースが大きいほど埋めるのは容易ではないけど、自分の心に向き合って、時間を掛けて整理していきたい。